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浅野祥と東日本大震災|三味線プレイヤー 浅野祥|Asano Sho Official Website

BIOGRAPHY

再生楽器の完成、そして津軽三味線・新時代

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震災の年、夏頃より製作を始めた再生楽器たちが次々と完成しました。

これは震災で出来たガレキから楽器を創るという事で、宮城の音楽仲間で行っている「ゼロ・ワン・プロジェクト」と言います。

許可をいただき、膨大なガレキから使えそうな木材を探し、職人に選定してもらい様々な楽器にするプロジェクトです。

完成した津軽三味線は、誰かの家のカウンターらしき木から生まれました。再生楽器の第一号はこの津軽三味線です。その1号を浅野祥が預かり、演奏しております。

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本来、津軽三味線は堅い木を使用します。目が詰まっていて見た目よりも重いのが特徴です。
ガレキから出来上がった三味線は、もともと海水に使っていた経緯があるからでしょうか、本来の重量の半分程度でした。

しかし、これが誰かの生活が染みこんだものから生まれた楽器だと思うと、何故か重く、心が研ぎ澄まされていくのを感じました。

楽器に生まれ変わったことで、浅野 祥の様な若い世代でも語り継いでいける一つの証明として存在しています。

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浅野 祥の実家は全壊扱いとなり取り壊しました

浅野 祥が初めて師事した先生は祖父でした。浅野が育った家は大工であった祖父が作った家でした。民謡や三味線が好きで好きでたまらなかった祖父が、孫の祥に津軽三味線を教えました。

7歳で大会に出場した浅野は、津軽三味線の魅力にのめりこんでいったのでした。
彼らの目標は、当時日本で最高峰のタイトルであるA級優勝、そして3連覇でした。
「時間がかかってもいいから優勝しよう。そして3連覇を目指そう!」
そう約束していたのです。

しかし祖父は初優勝を見ることができないまま、祥が12歳の時にこの世を去ったのでした。

浅野は14歳でA級最年少優勝を果たし、そのまま3連覇という前人未踏の記録を打ちたて、殿堂入りを果たしました。

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全壊扱いとなった実家は、津軽三味線でも使えそうな木材を柱に使っていた為、祥の父の提案から、「三味線にしよう」という事になりました。
思ったより損傷も酷くなく、全てのパーツを賄うことができました。

これらの三味線たちをもって、日本各地、世界各地へ演奏にでかける、そんな夢を今は抱いています。
現在も必ずその三味線を使用して演奏しています。自身の4枚目のアルバムにも使用しました。

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思いが詰まった木より生まれた三味線、そして自分の目で見て、感じた心。これらを持って数少ないプロの津軽三味線奏者の道を、表現者として一歩一歩ですが、確実に歩んでいます。

津軽三味線はもともと大道芸の様な存在でありながら高橋竹山によって世界に存在を知られることになりました。

しかし、歴史は浅く、まだ150年程度の楽器です。これから進化を想像できるこの楽器は、恐らく奏者の表現欲によって変わっていきます。

津軽三味線界、唯一無二の存在が奏でる「津軽三味線新時代」の幕開けです